選挙特番を見ながら自己流ヨガ??をずっとやっていたら、頭痛に襲われてしまいました、運動なんてもうしないと誓っています・・・。

さて、「戦時下のおたく」という本を読んで、「シャレだと思っていたことがシャレにならずリアルを侵食する」という概念に、あーまさにそんなことって(自分には)あるなあ・・・と感銘を受けています。

小学校6年生の頃の文集には、

 夢  まんが家

なんて書いてありました。わたしは漫画家になりたかったのですが、それは漫画を描きたいというより、漫画家というイメージに憧れていた面もあります。あと、自宅兼仕事場で、フリーでダラダラ仕事するという生活スタイルに憧れていた面もあります。そしていま、わたしはなぜか個人事業主で仕事をしていますが、「漫画家のような仕事形態」と自分では解釈し、あのころの夢がちょっぴり叶ったかのような気分を味わっています。

イメージや夢を真に受けて、わたしのリアルは少しだけ夢の色に染まります。

その同じ文集には

   尊敬する人  伊藤つかさ

とかわたしは書いていました。それは外国の日本人学校でのことで、流行の歌の情報などはあまり入って来ませんでしたが、なぜかわたしは断片的な情報から伊藤つかさが好きな女子小学生でした。女性アイドル歌手は全般的に好きですが、そのハシリは伊藤つかさ、だったようです。女性が女性のファンになるというのは、その人になりたい、その人のようになりたいという気持ちがあるのでしょうか。わたしも伊藤つかさ(のよう)になって、伊藤つかさのように愛されたいと、カワイイカワイイされたいと、そんな気分があったのでしょう。そんな残滓として我が家には今も伊藤つかさのレコードがあります。わたしがむやみな憧れを抱いた、あのころのアレってなんだったのだろう・・・と思いつつ、さっき久々に聞いてみました。

 かすみ草(朗読)

     詩:伊藤つかさ

   かわいい そんな言葉が 

   すぐに出てきそうな花

   私の大好きな花

   悲しいことがあると 友達みたいに なぐさめてくれる

   苦しいことがあると 友達みたいに 

   心をいやしてくれるものネ!

   ありがとう かすみ草

   私の大好きな

   花よ

   ありがとう かすみ草

このような作品を聞いて、それに対し自分がどのようなスタンスをとるべきか、ものすごく心が乱されるのを感じます。アイドル歌手の作品というのは全般的にそんな空気を感じますが、聞き手の立ち位置がとても問われて、突きつけられているような気分になります。そしてわたしは、このような作品に対し、それをシャレとして受け止めたくはないのです。つまり、この伊藤つかさの「朗読 かすみ草」を聞いて、そのまま感動したいと思うし、少なくともこの作品であれば大丈夫です。この作品では何に感動するのか、といえば、そんなに難しいところに感動するのではなく、花への純粋な憧憬といったものに共感する自分がいます。いや、もしかしたらそれだけでもないのかもしれませんが、作品世界に感動する、作品に出てくる世界に感じ入る、そんな楽しみ方が可能な表現が、わたしは好きなようです。

無力で従順な美少女によって守られるのは男性ばかりではないのでしょう。わたしはこのような作品性によって、実はとても精神的に支えられている気がするのです。ほんとうはわたしも一生を乙女ちっくに侵食されて生きたかったような気さえします。自分の性的な考えの根底にはそれがあります。わたしよりずっと若い女性にはそのようなファンタジーが入っていないように思い、なんだかうらやましいとさえ思ってしまいます(よくわからないですが・・・)。

わたしはずっと乙女でありたかった。乙女あつかいをされたかった。4組の関さんみたいにわたしも「可愛い子」だと言われたかった。だから関さんにずっとへばりついて、関さんの長い髪をいじくってもいいと言われた日には、あの長い髪をこれからいじくることができるのだという歓喜に震えていた。いつか、いつか、わたしが乙女ちっくの世界に参加することはできないかしら。まだ可能なのではないかしら。中途半端な立ち位置ながら、ずっとそんなことを考えて白髪を増やしている自分がいます。個人事業主なのに。立派に社会人として生きなくてはいけないのに。

リアルへの進出・・・駅員の作品を書き始めたのは、むかし付き合っていた人への電子メールで、詩をおまけに書いて、「駅員さんシリーズ」とか書いたのが、きっかけだった・・・のかな。そのひととは遠距離になって、すごく自分が駅員にハマった時期でもあったので、そのひととの遠距離電話でも小田急の駅員の話ばかりするようになって、ふられたのも納得至極なのですが・・・。制服をみつめる自分、制服をおいかける自分というものが、自分のほんの一部というよりは、自分の根幹に根を張ってしまい、だんだんとシャレにならなくなっているのも感じます。駅員を観察するという狭いことだけではなく、自分がなぜそれをするのか、という部分が、かなり決定的というのか、恥ずかしくも重要だったということに気づいて・・・・

でも、完全にそっちには行けない中途半端な自分がいます。

ほんとうに、ほんとうに、どっちにも行けないんだなあ・・・。

それはそれで

楽しい毎日です

が。